《アルゴリズム特許》

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【あるごりずむとっきょ (algorithm patent) 】

 ソフトウェアとアルゴリズムの権利保護については, 古くから米国を中心に様々な議論が行われてきた.

 まずソフトウェア産業の黎明期にあたる1960年代には, IBMなどのコンピュータ・メーカーは, 特許 (patent)によるソフトウェアの保護を主張した. しかし, 二進化十進数を二進数に変換するプログラムに関して争われた, 「ゴッチューク対ベンソン判決」(1971年), ある種の化学プロセスの終了を判定するソフトウェアに関して争われた, 「パーカー対フルック判決」(1978年)において, 最高裁がソフトウェアの特許による保護を繰り返し拒絶したため, 米国政府は, 1980年に著作権法を改正し, 著作権 (copyright)によってソフトウェアを保護することを決定した.

 著作権法は, 本来文芸作品などに対して適用される法律で, 作品の表現は保護するが, その中に含まれるアイディア自体は保護しないのが特徴である. このため, リバース・エンジニアリングによってプログラムを解読し, それと本質的に同一のプログラムを作成・販売しても, 著作権の侵害となならない. ソフトウェア産業界が, アイディアの保護を求めるため, 特許法による権利保護を主張した原因はここにある.

 このように, 矛盾を抱えながらも著作権法による保護を決めた米国であったが, 著作権改訂の翌年に当たる1981年, 最高裁は「ダイヤモンド対ディーア判決」で, ソフトウェア特許(software patent)への道を開いた. 最高裁はこの判決の中で, 数学公式もしくはアルゴリズムを自然法則のようなものと規定し, それ自体は特許対象とはしないが, それと同時に申請が単なる数学公式ではなく, 全体として産業プロセスの保護を求めている場合は状況は異なるとし, 当該申請は特許付与することを支持したのである.

 この判決以後, 米国ではソフトウェア特許が次々と成立した. その審査に当たっては, ソフトウェアの中に数学的アルゴリズムが含まれなければ特許適格, 数学的アルゴリズムが含まれているときは, 全体を見て判断するという「二段階審査」が用いられることになった.

 しかし, 数学的アルゴリズムと非数学的アリゴリズムの線引きをめぐって事態は紛糾し, 以後10年以上にわたる混乱を招くこととなった. この過程で成立したのが, AT&T-カーマーカーの線形計画法特許である. ここでAT&Tは, カーマーカーが発明した2つのアルゴリズム, すなわち射影変換法とアフィン変換法を特許申請し, 1988年に極めて適用範囲の広いアルゴリズム特許が成立することとなったのである.

 一方わが国では, 1970年代以来, ソフトウェアは著作権と特許法の中間に位置するプログラム権法を作成し, これによって権利保護を行うべきであるという議論が主流を占めていた. それは, ソフトウェアが特許法に規定する「発明」, すなわち「自然法則を利用した技術思想」とは考えにくいこと, またその一方で, 現行の著作権法は保護期間が長すぎる(60年間)ことなど, 工業製品であるソフトウェアの保護には適さないと考えられたためである. ところが, プログラム権法構想は, 米国の反対の下で潰え去り, わが国も著作権法を改定してソフトウェア保護を行うことが決まった. 1986年のことである.

 しかし, このころ既に米国は, ソフトウェアの特許による保護を推進していた. こうして, ソフトウェアは表現部分を著作権法で, アイディア部分(アルゴリズムを含む)を特許法で保護するという, ややこしい状況が生まれたのである.

 この結果, わが国にも米国と同じ混乱が持ち込まれることになった. 即ちソフトウェアは自然法則を利用した技術思想といえるか, 数学的アルゴリズムと非数学アリゴリズムの線引きはどのように行うか, などがそれである.

 この過程でわが国でも, 1991年には一旦 "単なる数学アルゴリズム" として拒絶されたカーマーカー特許が, 1993年に逆転公告され, 異議申立てを経て1995年に成立することとなった. これに対して1996年に無効審判請求が行われたが, 1998年12月にこれが却下され, アフィン変換法特許が最終的に成立した. これを受けて今野らは, 1999年3月東京高等裁判所に対して特許取り消し請求を行った.(この訴えは2002年3月に却下された)

 その争点は, (1)発明の新規性(ディキン法との類似性), (2)技術の開示の不十分性(超大型連立一次方程式の解法など), (3)適用範囲が広範すぎること, (4)数学アルゴリズムへの特許付与の是非などであるが, 詳細は文献 [1, 2]を参照して頂きたい.

 このように, わが国でも1980年代後半以来ソフトウェア特許は混乱の中にあったが, 1996年に特許庁が審査規準を大幅に改定したことによって, 混乱は納まりつつある. この改訂で特許庁は, 自然法則の利用については, ソフトウェアがコンピュータ利用を前提としており, コンピュータが自然法則の下で動いているという事実によって, ソフトウェアも自然法則を利用しているものと判断し, 長年の論争に決着を付けた. また数学的アルゴリズムも, それ自体は特許とはしないものの, それをインプリメントとしたプログラムは特許対象とするという解釈を行い, 事実上, 数学的アルゴリズムも特許対象とする方針を打ち出したのである. しかし, これらはあくまでも行政府である特許庁の法律解釈に過ぎないものであり, 法理論的にみて妥当か否かについては見解は分かれるであろう.

 歴史を振返れば, ソフトウェア特許は, 著作権法による保護が十分でないため違法コピーが横行し, 開発資金を十分に回収できないことに苛立った産業界の要請を受けて成立したものである. これに, 1980年代のレーガン政権以来の, 強いアメリカを目指す知的財産権(intellectual properties right)戦略が重なり, いまではソフトウェア特許, (数学)アルゴリズム特許は当たり前のこととして受け入れられるようになった, と(法律関係者は)言う.

 果たして, ソフトウェア特許は, ソフトウェア産業やソフトウェア技術の発展に役立つ制度なのか. また現在のような, (数学アルゴリズムを含めて)何でも特許という状況が学問の進歩にとって望ましいものかどうか. これらについて, アルゴリズム特許と最も密接に関係しているオペレーションズ・リサーチ学会や, 応用数理学会で詳しい検討を行うことが求められているが, 結論が出るまでにまだかなりの時間が掛かるであろう.


 以上の文章を書いてから6年後の2006年現在,ソフトウェア特許を巡る状況は大きな転換点を迎えている.ソフトウェア関係者の間で,無数のソフトウェア特許が作り出す特許の藪がイノベーションを阻害しているという認識が高まる一方で,オープン・ソフト陣営が勢力を拡大する中,2004年に米国産業競争委員会が発表した「バルミサーノ・レポート」が,イノベーションを実現するためには,権利の囲い込みよりコラボレーションが重要であることを強調したからである.

 この結果わが国政府は,2005年以降ソフトウェア特許の審査を厳しくする一方で,権利の乱用に関する監視体制を強める方向に動き出している.また産業界でも特許の無料公開やプール制度などが広がりを見せており,ソフトウェア特許には逆風が強まっている.



参考文献

[1] 今野浩, 『特許ビジネスはどこへゆくのか』, 岩波書店, 2002.

[2] 今野浩, 中川淳司編著, 『ソフトウェア/アルゴリズムの権利保護』, 朝倉書店, 1996.